TOKYO2020 パラリンピック対談

途上国のアスリートが集う東京パラリンピックに

第4回 八代英太さん:元郵政大臣、NPO法人アジアの障害者活動を支援する会(ADDP)顧問

対談シリーズは動画でもご覧いただけます。(下記リンクから新しいウィンドウで開きます)

バナー第4回八代英太.jpg東京MX特設ページ(外部リンク)


■みんな障害者の予備軍

八代先生と小倉代表.jpg写真:対談シリーズ第4回 八代英太さん(右)と小倉和夫(左)

小倉 1964年の東京オリンピックの時は、東京にいらっしゃいましたか?

八代 1963年に山梨放送を退職して、山梨から東京に出てきた頃です。テレビの時代が到来しようとしていて何かで一旗上げたいという気持ちで一杯でした。NHKでオリンピック開会式の生中継が始まると、入場行進にもう釘付けです。終戦から20年もたたないうちに、日本はここまで来たんだと驚きました。オリンピック開催中は、重量挙げの三宅兄弟、東洋の魔女と呼ばれた女子バレーボールチーム、体操の小野清子さんなど日本選手の活躍を目の当たりにして、スポーツの力に圧倒されました。

小倉 パラリンピックはご覧になりましたか?

八代 その存在さえ知りませんでした。これは健常者のいけない所ですね。まさか自分が障害者になるなんて思ってもみませんでしたから。1964年の東京パラリンピックが最初のパラリンピックになるのですか?

小倉 国際パラリンピック委員会の方では、1960年にローマでオリンピックとパラリンピック双方が開催されたので、ローマ大会が第1回ということになっています。ただし、パラリンピックという言葉が広く世間で知られるようになったのは東京大会からです。

八代英太さん.jpg写真:元郵政大臣、NPO法人アジアの障害者活動を支援する会(ADDP)顧問 八代英太さん

八代 のちに障害を持ちその大会に出た人たちと親交を持つようになって、東京パラリンピックは大成功だったという話をよく聞きましたね。

小倉 ご承知のように、今や日本も高齢社会になりました。ある意味では高齢者というのは皆それぞれにさまざまな障害を抱えています。健常者と言っても、いつ障害者になるか分からないし、その境目もあいまいです。

八代 健常者は障害者の予備軍なんです。老いて足腰が弱る、耳が遠くなる、目が不自由になる、物忘れが激しくなる...、これらは障害と言えるでしょう。私は36歳で障害を持ちましたが、早く障害を持つか、年取ってから障害を持つかの違いです。ですから高齢社会の問題は、障害者問題でもあります。そういう意味では、高齢者にとって住みよい街は障害者にとっても暮らしやすいし、逆も言えるわけです。

小倉 高齢者だけでなく、赤ちゃんのいるお母さんというのもある意味ではハンディキャップをお持ちになっているわけです。広い意味で、2020年を契機に人々の社会意識を変えていかなくてはいけないと思います。


バリアフリー社会へ向けて

小倉 2020年の東京パラリンピックに向けて、この機会に広い意味でのバリアフリー社会を作っていくべきだと思います。八代先生は交通バリアフリー法を作られる時に非常に尽力されたと聞いております。

八代 現在、自民党の総務会長である二階俊博さんが運輸大臣の時、私が郵政大臣をしておりまして、「あなたの力でバリアフリー法を作ったら歴史に名を残しますよ」とけしかけて、一緒に法案づくりをすることになったのです。当時はバリアフリーが一般的ではありませんでしたから、いろいろな意見がありました。

日本財団パラリンピック研究会 小倉和夫.jpg写真:日本財団パラリンピック研究会 小倉和夫

小倉 反対意見もあったのですか?

八代 ありました。国土が狭いところに窮屈なビルがたくさん建っているのだから、そこにスロープやエレベーターを設置するのは大変だよと言われました。でもこれから建設される鉄道駅や空港、バスターミナルは障害者や高齢者が利用できるように設計施工されなければならないという法律をなんとか成立させました。それが15年前です。当時としては精いっぱいやりましたが、今から考えると表通りだけのバリアフリーなんですね。人間が24時間暮らしている裏通りには全然配慮していない。2020年の東京は、世界からたくさんのお客様をお呼びするわけですから、表通りだけでない、裏通りも含めたバリアフリーも進めていってもらいたいですね。

小倉 それから大事なのは心のバリアフリーではないでしょうか。これだけ高齢者が増えているのですから、社会の意識を変えていくべきです。でもまだ意識が低いと言わざるを得ない。例えば駐車場には障害者用のスペースがありますが、一般の人が勝手に使っているようなケースをよく目にします。そういう意識も含めて変えていかなくてはなりません。

八代 こんな話があります。公園の車椅子用のトイレがいつしか不良少年たちのたまり場になって、タバコを吸ったり、ドラッグをやったりなんてことに使われるようになった。それはまずいというので、車いす用トイレに鍵がかけられるようになり、「ご使用の場合は30分前に管理事務所にご連絡下さい」という札がかけられる。笑い話のような話ですが、人々の意識はまだそのレベルです。障害者に対して、無理解ではないけれど、未理解だと思います。


アスリート育成には企業の協力も

八代 最近、少しずつですがパラリンピックに関する報道が増えていますが、オリンピックに比べると、世間一般の関心はまだ低いですね。富士山に例えると、オリンピックが頂上だとすると、パラリンピックはやっと1合目ぐらいでしょうか。

対談の様子.jpg写真:対談の様子

小倉 もっと関心をもってもらうためには、やはりトップアスリートを育成していくことが大事です。注目を浴びる選手が数多く登場することで、障害者スポーツの裾野も広がるでしょう。しかしそれだけでは駄目で、これからはアスリート育成とともに、多くの障害者の方にスポーツを楽しんでいただく取り組みも一緒にやっていかなくてはなりません。

八代 これまで厚生労働省が障害者スポーツを管轄していたのが文部科学省に移り、さらに文科省の中にスポーツ庁が誕生して、オリンピック・パラリンピックの担当大臣も任命されました。障害者スポーツを取り巻く環境もだいぶ変わっていくのではないでしょうか。

小倉 障害者スポーツを盛んにするためには、障害者アスリートが選手生活を終えた後で、どういう道を送っていくのかも考えていくべきです。選手支援の一環として、就職など生活面でのケアも社会全体で支えていかなくてはならないと思います。そのためには企業の協力も必要になってきます。

八代 日本には障害者雇用促進法がありまして、100人以上の企業は2%、つまり100人に2人は障害者を雇用しなさいという法律があります。しかしそれを満たしている企業は、46%ぐらいです。

小倉 そんなものですか?

八代 1カ月5万円の納付金を政府に収めれば雇用を免除される仕組みがあって、お金を納めますから障害者の雇用は勘弁してくだいという感じです。

小倉 そこを変えていかないと駄目ですね。

八代 そうです。その一つの解決法として、企業に障害者アスリートを雇用してもらうための働きかけを行っています。毎月1回企業のみなさんに来ていただき、障害者アスリートを紹介しています。スポーツをやる障害者はガッツがあるので、他の社員の刺激にもなります。絶対にあなたの会社にとってプラスになりますよと。障害者アスリートと企業をつなぐ「つなひろワールド」という雇用支援サービスを立ち上げまして、そうした活動を行っています。

小倉 それはとても重要な活動ですね。

八代 障害者アスリートにとって、練習と仕事の両立は最も悩ましい問題です。仕事があまりにも忙しすぎると、競技者としての人生を全うできません。理解のある職場で、一人でも多くの障害者アスリートが競技に打ち込めるようにしていくことが大事だと思います。

小倉 諸外国では、数多くの障害者のコーチがいて指導に当たっているそうです。日本では障害者スポーツの指導者はまだ健常者がほとんどですが、今後はコーチや監督として働いていけるような道も作っていくべきだと思います。


途上国のアスリートを支援するパラリンピックに

小倉 オリンピックだけを見ますと、たとえば北京大会ではメダルを取った国は参加国の半分くらい、金メダルとなると参加国の4分の1くらいです。そこで今度の東京大会では、今までメダルを取れなかった国がメダルを取れるようにできないかと考えています。あと5年、日本がそういう国々を支援していくという精神が大切ではないかと思います。八代先生は長らくラオスの障害者スポーツの振興に取り組んでこられましたが、どんなご縁でそうした活動を始められたのですか?

ラオスの障害者スポーツ支援について話す八代さん.jpg写真:国際障害者スポーツ支援について話される八代さん

八代 ラオスで活動を始めてから今年で19年になります。きっかけは、ラオスの保健大臣が、当時アジア太平洋地域の障害者インターナショナルの議長をしていた私を訪ねてきたことです。当時のラオスは社会主義国であったにもかかわらず障害者福祉に関しては、何も行われていないも同然でした。野菜や果物が豊富で食べるものには困らない国ですから、障害者は家族がすべてを抱え込んで世話をしているということでした。保健大臣からそうした事情を聞いた私は、ラオスに行って障害者の方に会っていろいろとお話を伺いました。すると、「表に出たい」、「友達を作りたい」、「何か自分でできる仕事があったらやりたい」と積極的な意見が多かったんです。そこで、障害を持った人たちにスポーツを教えて、仲間を作り、働く意欲を引き出すプロジェクトを個人的に始めることにしたのです。もちろんラオスという国が大好きだったから始めたという側面もあります。周囲を山に囲まれたラオスは海のない農業国で、どこか生まれ故郷の山梨に似ている所がありましたから。

小倉 最初はどんな競技から始めたのですか?

八代 車椅子バスケットボールです。車椅子に乗ったことがないポリオの若者たちを車椅子に乗せて、バスケットボールのやり方を教えました。日本からコーチも派遣してもらって、いろいろと指導しました。最初は1チームだけ作ったのですが、見る方もやる方もこんな楽しいことはないとそのとりこになりまして、すでに7チームが誕生しています。アセアン地域ではかなりいい成績を残すまでなりました。他のスポーツにも広げてほしいということで、ゴールボールのチームも生まれています。

小倉 ロンドン・パラリンピックにはラオスの選手は出場したのですか?

八代 ラオスでは、ウエイトリフティングの選手が一人しか出ていません。財政的な問題もありますし、何よりスポーツの指導者がいないですから。

小倉 練習施設なども少ないでしょうからね。

八代 今度の東京パラリンピックでは、そこをなんとかしたいんですよ。アジアの中の日本ということを考えて、アジアの障害者アスリートを日本の援助で東京に招くことはできないかと思っています。私が顧問を務める「アジアの障害者活動を支援する会(ADDP)」では、メコン流域の5カ国(タイ、ベトナム、ラオス、カンボジア、ミャンマー)の障害を持った人たちをまず選手として育成して、最低でも1カ国5競技にエントリーさせるという目標で頑張っている最中です。

国際障害者スポーツ支援について話す小倉和夫.jpg写真:日本財団パラリンピック研究会 小倉和夫

小倉 ちょうど私どもパラリンピック研究会でも、その5カ国について、障害者スポーツの実態を調査中です。これから何が必要なのかを研究するつもりですので、是非ご一緒にやっていきたいですね。

八代 5カ国の中でタイは経済的にも一つ抜き出ているところがありますから、タイとコラボレーションして、支援していくといいかもしれません。

小倉 2020年の東京パラリンピックを、日本だけでなく、アジアのためにもなる大会にしたいものです。

八代 いいですね。指導者を派遣するなど日本がきちんと支援して、選手養成を行っていく。そしてアジアの国々から一人でも多くの障害者アスリートに東京大会にきてもらう。

小倉 1964年の東京パラリンピックが成功を収め、その後でフェスピックというアジア太平洋地域の障害者スポーツ大会が開催される契機となりました。2020年の東京パラリンピックも、その後の国際社会にインパクトを与えるような大会にしたいですね。

八代 東京大会ではオリンピックとパラリンピックの開会式を一緒にやったらどうでしょう。世界に名だたるスーパースターが車椅子の選手を押して入場行進したら、「インクルーシブな社会を目指す」というメッセージを東京から全世界に発信できると思いますよ。


【Profile】

八代英太さん近影.jpg八代英太 元郵政大臣。NPO法人アジアの障害者活動を支援する会(ADDP)顧問。1937年生まれ。ワイドショー司会、ラジオ、テレビでタレントとして活躍した後、1973年に転落事故により車椅子生活となる。1977年の参議院選挙で初当選。以来、28年間国政で活躍し、日本の障害者福祉に大きく貢献する。

 

小倉プロフィールフォト.jpg小倉和夫 日本財団パラリンピック研究会代表。1938年生まれ。外務審議官、駐ベトナム大使、駐韓国大使、駐フランス大使、国際交流基金理事長などを歴任。2020年東京オリンピック・パラリンピック招致では評議会事務総長を務める。青山学院大学特別招聘教授。