TOKYO2020 パラリンピック対談
プロ意識をもってパラリンピックに臨もう
第8回 廣道純さん プロ車いすレーサー
対談シリーズは動画でもご覧いただけます。(下記リンクから新しいウィンドウで開きます)
■車椅子でもスポーツが楽しめる!
小倉 廣道さんは現在日本を代表する車椅子ランナーですが、やはり幼い頃から運動をされていたのですか?
廣道 子どもの頃から、スポーツは何でも得意でしたね。勉強しないで、体育の時間だけ目立つ子どもでした。でも父親が万能のスポーツマンで、何でもできて当たり前と言われて育てられたので、スポーツで褒められた記憶はないですね。
小倉 学校の運動部には入っていたのですか?
廣道 高校では、怪我をする前まで体操部に入っていました。怪我をしたのは高校1年の時です。
小倉 大好きだった運動ができなくなって、かなりショックを受けたのではないですか?
廣道 オートバイで転倒し、歩道の縁石で背中を強打して脊髄を損傷したのですが、気付いた時は病院のベッドの上でした。事故前後の記憶がなく、寝たきりの入院生活が始まりましたが、不思議と絶望感はなく、むしろ命が助かったことへの感謝の気持ちがわいてきました。でも自分の取り柄だったスポーツができなくなってこれからどうしようと思っていたら、リハビリの先生が車いすでもスポーツができると教えてくれたのです。それで、入院中に大阪市の長居障害者スポーツセンターに行きました。
小倉 私も長居のスポーツセンターに行ったことがありますが、あそこは本当に素晴らしい施設ですね。
廣道 初めて行った時に、車椅子で走っている先輩たちがそこにいて、みんな実に楽しそうだったんです。それで、退院したら是非よろしくと彼らに言って病院に戻りました。
小倉 近くに障害者スポーツセンターがあって良かったですね。
廣道 怪我をした当時、もうスポーツの世界には縁がないと思っていました。でも電車で20分の場所にセンターがあったおかげで、もう一度スポーツをする喜びを味わうことができました。そしてそれがきっかけで、あれから25年間ずっと競技を続けてこられたわけです。
小倉 怪我をした人がスポーツを始められる場所があることは、とても重要ですね。
廣道 超高齢化社会を迎え、今後は障害者だけでなく、お年寄りの方々にも必要な施設だと思います。
■プロになるための険しい道のり
小倉 廣道さんは、シドニー、アテネ、北京、ロンドンと4回のパラリンピックに出場されています。何か変化はありましたか?
廣道 北京大会から競技レベルが格段に上がったのを感じました。違う次元に入ったと言ったらいいかもしれません。国を挙げて車椅子をこぐフォームを研究したり、専用のトレーニング施設を整備したりして、国の取り組みが競技成績を左右するようになりました。それまでは個人の努力で勝てたのに、国を挙げて取り組んだ強化選手がメダルを取るという図式ができたような気がします。特にロンドン大会ではイギリスが大活躍しましたが、あれはもう完全に国を挙げて取り組んだ成果だと言えます。
小倉 パラリンピックには2つの潮流があると思います。一つは政府が全面的にサポートする流れです。韓国や中国などがそうです。メダルを取ることを奨励し、メダルをとったアスリートには賞金だけでなく、引退後も年金を与えるなどして一生涯面倒を見ます。もう一つはアメリカなどが典型的ですが、障害者スポーツの商業化を進め、プロの障害者アスリートを企業や民間団体がサポートしていくというものです。日本の場合、このどちらでもない。日本はこれからどのような方向に向かっていくべきでしょうか?
写真:日本財団パラリンピック研究会代表 小倉和夫
廣道 僕は2004年のアテネパラリンピックの年にプロとして独立して、企業とスポンサー契約を結ぶ道を選びました。その当時、日本にはプロの障害者アスリートはいませんでした。だからプロになる道を誰も思い描いていませんでした。でも僕は、自分でプロの世界を作ってしまえば、その後に続く選手も出てくると考えました。
小倉 まさしくパイオニアですね。
廣道 しかし道のりは険しかったですよ。プロになろうと思ってから10年ぐらいかかりましたからね。日本で考えていてもらちが明かないので、渡米して車椅子マラソンの世界記録保持者であるジム・クナーブのもとへ弟子入りしました。そして練習方法だけではなく、プロとしてやっていくにはどんなことが必要かを教えてもらいました。僕の場合、2004年から準備したので多くの企業と何とか契約までこぎ着けましたが、強い選手がみんなプロになれるかと言うと現実的にはかなり厳しいと思います。
■大切なセカンドキャリア
小倉 日本財団パラリンピックサポートセンターで、「プロの選手になりたいか?」とアンケートをとったところ、「なりたい」と答えたのはアスリートの3割に過ぎないという結果が出ました。プロを希望する人が少ないのはなぜでしょうか?
廣道 やはり、セカンドキャリアの問題が大きいと思います。障害者アスリートは選手生命が絶たれた時、再就職がとても難しいですから。プロになったはいいが、引退して契約が終了したらどうなるか。考えただけでも恐ろしいことです。
小倉 それはよく分かります。
廣道 現在、引退した後、アスリートとしての経験を活かして次のステップで活躍できる人ってほんの一部です。
小倉 日本では、健常者がコーチや監督を務めるケースが多いことに問題があるのではないですか?
廣道 他の国々では、成績を残した選手が引退してコーチになり、そのコーチが育てた選手が今度またメダルを取るということが普通になっています。車椅子陸上の世界だけでも、アメリカやオーストラリア、フランスやタイのチームなどには車椅子のコーチがいますね。
小倉 廣道さんにはコーチがいるのですか?
廣道 僕自身はセルフコーチングで、自分自身でメニューを組んでこれまでやってきました。でもここ数年限界を感じるようになっています。優秀なコーチがいないと、世界でやっていくのが難しい時代になりつつあります。世界を見渡すと、コーチになる人が高い報酬をもらっています。他の国から呼ばれてヘッドコーチになる例もあります。
小倉 廣道さんは引退後、コーチになろうと思っているのですか?
廣道 現状の知識レベルでは難しいでしょうね。コーチングの勉強を一からやり直さなければ駄目です。若い頃にトレーニングをしながら、コーチングの勉強も同時並行でやっておけば良かったのですが...。
小倉 プロ選手としてやっていくだけでも大変なのはよく分かります。
廣道 競技によっては、大学でコーチングを学びながらアスリートとしてやっている選手もいます。実際、車椅子バスケやウィルチェアラグビーなどは元選手がコーチとしてやっていますね。
小倉 それは非常にいいことですね。
廣道 健常者コーチで優秀な人はたくさんいますから、健常者と障害者のコーチが一緒になってやっていくのがベストだと思います。
■健常者と障害者の関係を考え直す
小倉 東京パラリンピックに向けて、健常者と障害者の関わり方も変わっていくと思いますが、いかがですか?
廣道 障害者の立場で言わせていただくと、障害者を特別扱いすることがよくないと思います。僕もそうですが、怪我で入院するとまず病院で特別扱いされます。先天的に障害を持つ方でも、学校に行った時に特別扱いされる。そうして常に特別扱いされることに慣れてしまうと、周囲に甘えてしまうんです。また、「何かお手伝いしましょうか?」という声に対して、「結構です」ってなかなか言いづらくて、我慢して受けてしまう。手伝った方も感謝されて良かったと思いますから、相互の関係がどんどん悪い方へいってしまいます。
小倉 健常者と障害者の関係を考える上で、それは鋭いご指摘ですね。
廣道 アメリカの大会に行った時に、競技用の車椅子でホテルに戻る坂道を登っていった時に面白い体験をしました。登るのにかなりしんどい坂だったのですが、なんとか頑張って登っていたら、片側3車線の広い道路の反対側から、アメリカ人が「何か手伝おうか」と叫んでいるんですよ。手伝うにしても一体どうやって手伝ってくれるのだろうと思ったのですが、取りあえず「ノー・サンキュー」と大声で答えたら、「オーケー、グッドラック!」と言って行ってしまったんです。遠くからでも助けようと声をかけてくれて、それに対して断ったら何事もなかったように立ち去るのが普通のことなのですね。日本だと「いいえ、結構です」と言うのに本当に勇気がいります。その後気まずい雰囲気になったりするのも嫌ですし。
小倉 電車の中でお年寄りに席を譲る時も、同じような雰囲気になる時ってありますね。
廣道 日本でも、断ってもお互いに気持ちよくいられるようなムードになれるといいのですが...。
小倉 今後健常者と障害者が接する機会がもっと増えてくると、自ずと変わってくるのではないでしょうか?
廣道 障害者の方も変わらないと駄目ですね。障害があるから手伝ってもらおうと思うのではなくて、自分でできることは自分ですべきです。でも助けが必要な時は、勇気を持って「手伝って下さい」と言う。そうした毅然とした障害者が増えれば、障害者に対する見方も変わってくると思います。そのためにも障害者自身、理学療法士やリハビリの先生など、身近に接する健常者との関わり方からまず考え直していくべきでしょうね。
■障害者アスリートが与えるインパクト
小倉 廣道さんは、一般の障害者からするとまさにスーパーマンのような存在だと思います。障害者アスリートの活躍をみて、一般の障害者の方が何かスポーツを始めようという気持ちになるのでしょうか?
廣道 僕が車椅子マラソンを始めた頃は、2時間を切れば速いと言われる時代でした。2時間の壁というのは時速21キロぐらいで、努力すればなんとか目指せるタイムでした。それが現在の優勝タイムは1時間20分台になっています。僕のレベルでもそれは想像を絶するタイムです。そのタイムを出さないと世界ではやっていけない時代になっています。
小倉 障害者スポーツのレベルがどんどん高くなっているのですね。
廣道 そうです。しかしこれは健常者のプロスポーツでも同じです。プロ野球選手やJリーガーを目指している子どもたちはたくさんいると思いますが、実際になれる人はほんのわずかです。だから、パラリンピックも本当に選ばれた人たちだけが活躍できる世界で、それは仕方ないと思います。
小倉 しかしその頂点の世界があるからこそ、そこを目指してみんな頑張るわけですよね。
廣道 そうなんです。だから、それを目指して頑張ったけれど夢がかなわなかったということでも別に構わない。その努力が次の人生につながっていけばいいわけです。そうして頑張った姿がスポーツとは無縁の障害者にも勇気を与えるのだと思います。
小倉 パラリンピックの効果は、障害者の方よりも、健常者に対する影響力の方がむしろ大きいと私は思います。障害を持つアスリートのすばらしい姿に打たれて、自分は一体何をやっているんだ、自分ももっと頑張れるはずだという気持ちになります。
廣道 間違いなく僕たちの方が、条件が悪いですから(笑)。だから僕はオリンピック選手にも絶対に負けないぞと思ってとずっとやってきました。海外に行くにもチケットを自分で手配して、通訳を連れていく余裕もないから英語も自分で勉強して、すべて自分でやってきました。
小倉 フィールド外でもさまざまなハンディキャップを乗り越えて、みなさん頑張っておられるのですね。
■パラリンピックを盛り上げるためのアイデア
小倉 前回対談させていただいた乙武さんは、オリンピックとパラリンピックの合同開催を提案されているのですが、今度の東京パラリンピックに関して、廣道さんは何かアイデアをお持ちですか?
廣道 合同開催に関しては僕も賛成です。ただしすべての競技種目を同時に行うのは、開催期間が長くなってしまうので難しいと思います。オリンピック選手をそれだけ長く拘束することは不可能ですから。
小倉 現実的にはいろいろと難しい問題があるのは確かですね。
廣道 でも僕たちパラリンピアンからすれば、やはり同時開催が理想です。かつて世界陸上で、車椅子レースの1500メートル走や切断クラスの100メートル走などのエキジビションが行われていたことがあります。世界のトップクラスの選手たちが、自分たちの競技の合間に障害者ランナーのレースに見入っていました。僕も大阪で行われた世界陸上選手権での車椅子レースに出場しましたが、超満員の長居スタジアム(現 ヤンマースタジアム長居)の大観衆の前でレースができたのが感動的でした。
小倉 実にいい風景ですね。どうしてそれが今はなくなってしまったのですか?
廣道 世界陸上が4年に一度だったのが2年に一度になり、世界陸上がある時期とIPC(国際パラリンピック委員会)の陸上競技世界選手権大会とが重なってしまい、同時開催が難しくなってしまったようです。
小倉 それはとても残念なことですね。
廣道 もう一つ考えられるのは、オリンピックの前にパラリンピックを開催することです。オリンピックで熱狂して、その熱が冷めた2週間後にパラリンピックが始まる今のスタイルでは盛り上がりに欠けるのは確かです。報道熱も下火になってしまっていますし。パラリンピックを見て、そのままオリンピックに突入するのもいいのではないかと思います。僕らはオリンピックの前座でいいのです。多くの人に見ていただければ、レベルの高いパフォーマンスを通して、障害者スポーツの面白さや迫力をダイレクトに伝えられると思います。
小倉 なるほど。ただしロンドン大会の場合は、パラリンピックがあれだけ成功を収めた理由の一つは、オリンピックでイギリスの選手が大活躍したので非常に盛り上がって、その熱気がパラリンピックを成功に導いたと言われています。ですから、そのあたりの判断は実に難しいですね。
■プロ化が求められる日本の障害者スポーツ界
小倉 2020年に向けて、やらなければならないことがたくさんあると思います。その一つは競技団体の強化だと思いますが、いかがですか?
廣道 今まで競技団体の活動はスタッフのみなさんが仕事をもちながらボランティア的にやるというパターンが多かったと思います。どちらかと言うとアマチュア的でした。今までそれは本当に仕方なかったのです。でも選手のプロ化が進んで選手自身を取り巻く環境がシビアになって、広報にしても税務にしても業務が複雑化して、スタッフに求められることのハードルがどんどん高くなっています。
小倉 スタッフが選手以上に知識をもって専門化していかなくてはならない時代になったのですね。
廣道 今後、競技団体スタッフがプロ意識を持つことは必要だと思います。「日本財団パラリンピックサポートセンター」という競技団体を支援する体制を整えていただいたのですから、こうした環境に甘んじるのではなく、これから先自分たちにとって何が必要なのか、積極的に戦略を立てていくべきです。そのために必要なのは、選手とスタッフが積極的に意見交換をしていくことだと思います。
小倉 これまではどちらかと言うと多くの選手は遠慮がちでしたからね。パラリンピックに向けて障害者スポーツを取り巻く環境を変えていくためにも、選手側の考え方をさらに反映させていかなくてはなりませんね。
廣道 パラリンピックは、北京大会以降、急激にプロ化にシフトしました。それは選手だけではなく、コーチや競技団体も同様です。政府や企業など社会全体を巻き込んで考えていかないと、金メダルが取れない時代になったということです。東京大会ではこの傾向がもっと顕著になると思います。
小倉 私たちパラリンピックサポートセンターでもそうした流れを踏まえ、今後さまざまな側面支援をさせていただきたいと思っております。お互い協力しながら、東京大会を盛り上げていきましょう。
写真:対談を終えて
【Profile】
廣道純 プロ車いすレーサー。1973年生まれ。1989年、16歳の時、バイク事故による脊椎損傷で車椅子生活になる。17歳で車椅子レースの世界へ。96年、大分国際車いすマラソンで総合2位。2000年、シドニーパラリンピック800メートルで銀メダル、04年、日本人初のプロアスリートになり、アテネパラリンピック800メートルで銅メダルを獲得。現在、世界各地のレースに出場しながら、講演会なども積極的に行なっている。
小倉和夫 日本財団パラリンピック研究会代表および日本財団パラリンピックサポートセンター理事長。1938年生まれ。外務審議官、駐ベトナム大使、駐韓国大使、駐フランス大使、国際交流基金理事長などを歴任。2020年東京オリンピック・パラリンピック招致では評議会事務総長を務める。青山学院大学特別招聘教授。