第42回ワークショップ

2023年8月23日
テーマ:「パラスポーツを通じた他者理解と共生社会」
講師:田中彰吾氏(東海大学 文明研究所 所長)
指定討論者:河合純一氏(パラリンピアン 水泳)

講演(田中):
当事者が現場で経験していることをありのままに記述し、その構造を理解しようとする現象学の立場から「パラスポーツ」「他者理解」「共生社会」について考える。

現象学的な「他者理解」に関連して、二つの考え方を紹介しておきたい。一つ目は、「身体化された心」である。人間には思考・感情・記憶・想像など様々な心の過程があるが、それらの心の過程は身体が動き回り、環境に働きかけるという具体的な行為の中に埋め込まれた状態で初めて実現する、という考え方である。生きた身体から切り離された心の過程は存在しない。

二つ目は現象学者メルロ=ポンティの「間身体性」という理論である。他人の身体で起きていることを知覚すると、その人の身体で生じている行為が自身の身体でも再現される(例:教室内におけるあくびの伝播)ように、自他の身体間には循環的な関係が潜在するという考え方である。メルロ=ポンティは、人間が他者の心の中で起きていることを理解する際、最も根底で起きているプロセスが身体的なものなのではないのかという問題提起をし、「間身体性」が他者理解につながる回路であること、また、言葉以外のシグナルによっても他者と同期・同調するような関係から他者理解が可能であることを示唆した。人間は、同期・同調の関係がうまくできる相手については「相性が良い」と感じるし、うまく噛み合わない場合は「相手と上手くコミュニケーションが取れない」と感じながら独特の「あいだ」を形成しているのである。

これらの考え方を踏まえると、他者理解の過程では、お互いの身体的相互作用、特に非言語的相互作用がうまく噛み合うためのやりとりが密に生じており、これが言語的な理解を支えていることがわかる。他者を理解できない経験があったとしても、それもまた、「あいだ」での他者理解をさらに進展させるきっかけなのである。

これらの理論とパラスポーツの関連を考える。報告者がパラスポーツを画面越しに観戦した当初、障がいにともなうもどかしい感覚を自身の身体におぼえたが、観戦を続けるうちに、選手の身体経験が自身の身体にも乗り移ってくるかのような経験が生じた。これは、「間身体性」の観点からすると、他者の身体とその障がいを間接的に告げてくれている経験だと考えられる。すなわち、他者の身体についてもどかしさを感じることは、他者の障がいがどのようなものかを共感的に感じる際の重要な手掛かりになり、障がいを理解するうえで重要なきっかけとなるのである。また、パラスポーツの特徴の一つである競技アシスタントの存在は、アシスタントとプレーヤーとの間で濃密な「あいだ」ができあがっていくプロセスであると捉えることができる。これは、「間身体性」が他者の心を理解する最初の入口であるのみならず、両者の循環関係が深まり、二人が共生していくための「あいだ」の生成にもかかわっていると思われる。

人々の「共生」を実質化するための方策として、「間身体性」を機能させるためにお互いの身体を知覚し、共感できる生活環境を整えることが重要であり、ユニバーサルデザインに基づく環境の整備は、パラスポーツの施設を作ること以前に検討しなくてはならない。また、トップダウンの施策のみならず、ボトムアップに構築されているローカルな共生の場を吸い上げるための社会的なシステムの整備が必要になると考えられる。


【討論より】

河合:
「あいだ」「間」などに関連し、自分が講演する際に、最後に必ず入れる二枚のスライドがある。一つは音楽家のマーラーの「大切なことは楽譜の音符と音符の間にあるんですよ」というフレーズ。二つ目はフランスの作家サン=テグジュペリの「本当に大切なものは目に見えない」というフレーズ。このように信頼や波長みたいなものを理解しようとする気持ちを人間が失ってしまったら、社会は成り立つのだろうかという問題・課題を提示していただいたように感じる。他者理解という点では、障がい者という「人(個人モデル)」の理解なのか、そもそも社会モデルとしての「障がい」に対する理解なのかによっても違いがあると感じた。
 オリンピック・パラリンピックの一体化が進み、長年オリンピックの指導をしていた指導者がパラリンピックの指導に関わるケースが出てきているが、障がいに対する理解が十分でないという声もある。今後インクルージョン・共生を進めていくためには、ニュートラルな思考をすることが一つのポイントになるのではないか。